野間道場小史

講談社野間道場は、大正末期、初代社長野間清治氏の熱意によって創立された。野間清治氏は学生時代から剣道と文筆と演説にほとんど熱狂的な興味を持っておられた。

その武道観として社長は、剣道は人間道である、と言う。3尺の剣をもって立ち向うそこに宗教があり、道徳があり、社会がある、智もあり勇もあり仁もある、社会のあらゆるすがたがここに存するのであると。

その武道観として「剣道即人生」を標榜に、社員の人づくりに剣の持つ理合をあてはめ推し進めたことに、 野間道場は始まる。

大正12年、令息恒氏が15歳にして隣接大塚署にて稽古をされ、後に有信館に入門された。 大正12年8月には教師として安部義一氏を招き、翌年4月に和佐田徹三氏を、さらに14年4月に増田真助氏が師範兼社員として入社された。これによって講談社の剣道は活況を呈し、その年の秋には野間邸内の裏の森に幅5間奥行き6間木造瓦ぶきの道場が建設された。

当時は午後4時から5時頃まで、剣道の稽古時間は執務時間扱いとして少年社員に剣道を奨励した。 社長も又忙しいなかを道場に出られて、いろいろ感想なり、批評をされたり、始終端然と座っておられたのでいやがうえにも盛んになった。


昭和2年には第1回の剣道大会が開かれ、昭和5年8月には第一回昭和天覧試合に指定選士として優勝された持田盛二先生が朝鮮総督府の師範であったのを、懇請して野間道場の師範に招き、同時に講談社社員となられた。持田先生が道場に来られてから剣士は激増、教えを乞う剣道愛好家が東京は勿論全国から野間道場を訪れるようになり、この時から午後の稽古と、さらに朝稽古を7時から8時まで1日2回となった。同年11月には道場を増築、いよいよ飛躍の過程をたどるのである。

毎朝の稽古には持田範士を筆頭に、増田真助、矢木参三郎、大野友規、桑田福太郎、大畑郷一の各専任の先生はじめ、教士の諸先生方は4、50名に達し、稽古も外来剣道家をはじめ、少年剣士、女性剣士を加えると100名を越える盛況となった。道場が狭すぎるので再び昭和8年11月に第2回の大増築を行い、稽古場だけでも幅5間、長さ16間という民間道場としては日本屈指の立派な大道場となり、年と共にいよいよ発展していった。


朝稽古が終ると先生方は、順番に入浴し、道場で出す朝がゆと味噌汁で朝食をとりながら懇談し、爽快な気分でそれぞれの勤務先へ出かけていったものである。

現在大御所といわれている剣道家は、必ずといってよいくらい、一度はこの道場を訪れている。


昭和9年5月、野間道場史を飾るにふさわしい快挙があった。それは皇居内済寧館で行われた、皇太子殿下御生誕奉祝天覧試合において、野間恒氏が26歳にして東京府代表選士として2日間にわたる試合のすえ見事優勝をかち得た。これによって、いよいよ講談社の剣道が名実共に高く評価されるようになった。その後も恒氏は剣道に精進されたが、昭和13年、30歳の若さで尊父野間清治氏のあとを追うように逝去されたことは、野間道場にとっても又剣道界にとっても大きな損失であった。


この間昭和2年6月の皇道義会主催の大会において、大将野間恒、中堅森寅雄、先鋒土田仲次のメンバーで優勝した。以来、8年、11年、14年の皇道義会、さらに12年、14年の全日本官庁実業団体試合等で優勝した。講談社剣道の優勝回数はめざましいものがあった。


なお昭和15年3月現在の講談社社員の有段者記錄によると、五段4名、四段33名、三段21名、二段32名、初段116名、計206名にのぼり、錬士の称号を有する者は、苗木悌治、黒岩正実、羽石唯義、栗原利彦、安部正雄、諏訪好太郎、町田政雄、植田僊平、小河丑松、服部敏幸、小池金作、柿沼留吉、長岡済、望月正房、戸井徳次郎、大友端立、長井武雄、清水誠、大手秀夫の19名であった。


さらに昭和15年6月、 紀元二千六百年奉祝天覧試合が行われ、指定選士として講談社野間道場師範増田真助が出場、また府県選士東京府代表として講談社社員望月正房が出場、師弟そろって優勝の栄誉を担ったことは、講談社野間道場の歴史の上に輝く1頁を加え、野間道場の名声をいよいよ天下にとどろかせた。この時すでに初代社長野間清治氏も恒氏もなく、初代野間社長夫人が、3代社長として剣道にも深い理解を示され、道場は相変わらず隆盛の一途をたどったが、第2次世界大戦も末期になると応召者も多く、稽古をする人員も次第に少なくなり、昭和19年頃には戦争も苛烈となり、自然に道場から竹刀の音が消えていった。


終戦とともにGHQの命令で剣道は中断された。当時野間道場は戦災社員の住宅として利用され、終戦後もしばらくその状態が続いたが、昭和30年頃から再び講談社社員道場として使用可能になり、昭和27年5月、東京都剣道連盟が組織され、剣道人口も増加してきたので、当道場も37年秋から再び一般愛好者に開放されることになった。


朝稽古は7時から8時まで年中無休で、当時は持田盛二範士を中心に、多数の剣道愛好者が集まり、再度野間道場は盛況を取りもどした。

持田盛二範士、増田真助範士、佐藤卯吉範士、鶴海岩夫範士、小沢丘範士、小川忠太郎範士、大野操一郎範士、中野八十二範士等の指導者が亡くなられ、現在は森島健男範士九段を中心に、多数の錚々たる先生方が指導され、教士、錬士をはじめ、一般、学生、少年、女性など多数の剣士が集まり、再び戦前の盛況ぶりに戻っている。

講談社剣道部員は、月、水、金の週3回、午後6時から7時まで、 初代社長の遺志をついで社業のかたわら剣道に励んでいる。

望月 正房

望月正房
望月正房

望月正房 略歴

1913年(大正2年)5月~1992年(平成4年)6月22日

剣道範士八段。群馬県出身。1927年(昭和2年)、同郷の野間清治が社長を務める大日本雄辯會講談社に入社。少年部社員として勤務するかたわら、野間道場にて師範の持田盛二・増田真助の指導を受ける。

1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧試合の府県選士之部にて優勝。同指定選士之部に出場した増田真助師範とともに、師弟そろっての優勝を果たす。

持田・増田両師範亡き後は長く野間道場の朝稽古を主導し、その伝統を守った。

持田盛二先生遺訓

剣道は五十歳までは基礎を一所懸命勉強して、自分のものにしなくてはならない。普通基礎というと、初心者のうちに修得してしまったと思っているが、これは大変な間違いであって、そのため基礎を頭の中にしまい込んだままの人が非常に多い。

私は剣道の基礎を体で覚えるのに五十年かかった。

私の剣道は五十を過ぎてから本当の修行に入った。心で剣道しようとしたからである。

六十歳になると足腰が弱くなる。この弱さを補うのは心である。心を働かして弱点を強くするように努めた。

七十歳になると身体全体が弱くなる。こんどは心を動かさない修行をした。心が動かなくなれば、相手の心がこちらの鏡に映ってくる。心を静かに動かされないよう努めた。

八十歳になると心は動かなくなった。だが時々雑念が入る。心の中に雑念を入れないように修行している。

持田盛二
持田盛二

持田盛二 略歴

1885年(明治18年)1月26日~1974年(昭和49年)2月9日

剣道範士十段。号、邦良。「昭和の剣聖」と称される剣道家。群馬県勢多郡下川淵村(現在の群馬県前橋市)出身。

法神流免許皆伝の父善作から剣の手ほどきを受けた後、17歳で上京。中山博道の有信館、高野佐三郎の明信館で修行。大日本武徳会武術教員養成所を修了し、京都府警察部剣道教師、千葉県警察部剣道師範、東京高等師範学校講師、朝鮮総督府警務局剣道師範を歴任。

朝鮮総督府在職中の1929年(昭和4年)に御大礼記念武道大会剣道指定選士の部(天覧試合)で優勝したことから、野間清治に請われて野間道場師範に就任。野間恒・森寅雄ほか多くの剣士を世に送り出した。

座右の銘は「釼徳正世(剣徳世を正す)」。

講談社野間道場年譜

1878年
明治11年12月17日

講談社初代社長・野間清治、現在の群馬県桐生市新宿に誕生。
父好雄は上総飯野藩士野間銀次郎の弟、母ふゆは同藩武術師範森要蔵の長女

1904年
明治37年4月

野間清治、東京帝国大学教員養成所を卒業し、沖縄中学校に赴任

1907年
明治40年10月

野間清治、東京帝国大学法科大学首席書記に就任

1909年
明治42年4月24日

野間清治の長男・恒 誕生

1910年
明治42年11月1日

野間清治、「大日本雄辯會」を創立

1910年
明治43年2月11日

「大日本雄辯會」より雑誌「雄辯」を創刊

1912年
明治45年夏

野間清治、東京帝国大学での剣道稽古中にアキレス腱を断裂。
以後、自身の稽古は自重

1913年
大正2年1月

野間清治、東京帝国大学首席書記を辞職

1914年
大正3年6月11日

森寅雄、群馬県桐生市に誕生。母ヤスは野間清治の妹

1921年
大正10年7月

野間清治、音羽の邸宅に転居

1922年
大正11年3月

野間恒、千駄木尋常小学校卒業。進学せず碩学を招いて自宅で学習

1923年
大正12年

野間恒、15歳で本郷真砂町の有信館に入門。中山博道の指導を受ける

1924年
大正13年

野間清治、甥の森寅雄を音羽野間家に引き取る

1925年
大正14年

社名を「大日本雄辯會講談社」と改称

1910年
大正14年4月20日

有信館の増田真助、剣道師範兼社員として講談社に入社

1910年
大正14年7月

東京府東京市小石川区音羽(現東京都文京区)にて野間道場上棟式
神田明神脇の道場を買い上げ、音羽野間邸裏に移築

1910年
大正14年10月

野間道場落成(幅5間・奥行6間)

1928年
昭和3年1月

伊香保別邸に剣道場を新設

1929年
昭和4年5月5日

御大礼記念天覧武道大会の指定選士之部において、朝鮮総督府警務局師範の持田盛二が優勝

1930年
昭和5年8月

野間清治、持田盛二を野間道場師範に招聘

1930年
昭和5年11月

野間道場 第1次増築

1931年
昭和6年6月24日

第10回皇道義会武道大会において、大日本雄辯會講談社剣友会が優勝
(野間恒、森寅雄、土田仲次)

1933年
昭和8年5月21日

第12回皇道義会武道大会において、大日本雄辯會講談社剣友会が優勝
(野間恒、森寅雄、林正久)

1930年
昭和8年11月

野間道場 第2次増築(幅5間・奥行16間)民間屈指の大道場として完成

1934年
昭和9年5月5日

皇太子殿下御誕生奉祝天覧試合(府県選士之部)において、野間恒が
優勝

1935年
昭和10年4月21日

野間清治、千葉県富津市飯野に剣道場「野間館」を開設

1930年
昭和10年12月

静岡県伊東市の野間別邸の剣道場落成

1936年
昭和11年6月11日

野間清治の寄贈により東北学院「野間記念道場」落成

1930年
昭和11年10月25日

第15回皇道義会武道大会において「大日本雄辯會講談社剣友会」
優勝(中村千代吉、馬渕(服部)敏幸、望月正房、戸井德次郎)

1937年
昭和12年6月27日

早稲田大学主催第3回全日本官庁実業団体試合において「大日本雄辯會講談社剣友会」優勝
(中村千代吉、馬渕(服部)敏幸、望月正房、茂木保男、戸井德次郎)

1938年
昭和13年7月

野間恒、大日本武徳会から剣道教士号を授与さる

1930年
昭和13年10月16日

講談社初代社長野間清治、逝去(享年61歲)

1930年
昭和13年11月7日

講談社二代社長野間恒、逝去(享年30歲)

1939年
昭和14年5月28日

第18回皇道義会武道大会において「大日本雄辯會講談社剣友会」優勝
(望月正房、戸井德次郎、加藤静一)

1930年
昭和14年11月19日

全日本官庁実業団剣道連盟主催の第1回全日本官庁実業団体試合において「大日本雄辯會講談社剣友会」優勝
(望月正房、戸井德次郎、黛幸助、長井武雄、加藤静一)

1940年
昭和15年3月

錬士19名、有段者206名
五段4名、四段33名、三段21名、二段32名、初段116名

1930年
昭和15年6月20日

紀元二千六百年奉祝天覧試合において指定選士之部で増田真助、府県選士之部で望月正房がともに優勝

1941年
昭和16年12月8日

太平洋戦争勃発

1944年
昭和19年

野間道場閉鎖

1945年
昭和20年8月15日

終戦

1952年
昭和27年4月28日

サンフランシスコ平和条約発効

1930年
昭和27年10月14日

全日本剣道連盟結成

1930年
昭和27年10月

元講談社社員長井武雄が、文京区小日向台町に妙義道場を創設。
持田盛二・増田真助を師範に招聘

1953年
昭和28年7月

講談社剣道部再開、講談社社内剣道大会復活

1957年
昭和32年5月

持田盛二、 全日本剣道連盟から剣道十段を授与さる

1962年
昭和37年秋

野間道場再開 講談社野間道場道好会発足
講談社社員の稽古および少年部指導を再開

妙義道場閉鎖

1963年
昭和38年6月30日

第44回関東実業団剣道大会において、講談社が3位に入賞
(清水、高橋、正岡、杉山、飯島)

1969年
昭和44年1月8日

森寅雄、逝去(享年54歳)

1970年
昭和45年

佐藤卯吉範士、勲三等瑞宝章を授与さる

1971年
昭和46年10月31日

増田真助範士、逝去(享年70歳)

1910年
昭和46年11月1日

持田盛二範士、勲三等旭日中綬章を授与さる

1972年
昭和47年6月25日

全日本剣道連盟創設二十周年を記念し、「永年にわたり剣道の普及と発展に貢献した」として講談社野間道場を表彰

1973年
昭和48年

小澤丘範士、勲三等瑞宝章を授与さる

1974年
昭和49年2月9日

持田盛二範士、逝去(享年89歳)

1975年
昭和50年5月24日

第1回出版剣道大会において、講談社が優勝

1930年
昭和50年5月26日

高田政信範士、逝去(享年77歳)

1930年
昭和50年6月14日

佐藤卯吉範士、逝去(享年80歳)

1930年
昭和50年8月24日

鶴海岩夫範士、逝去(享年67歳)

1976年
昭和51年4月

道場の床半分の板を張り替え、台所・浴場・二階部を改装

1930年
昭和51年11月

渡辺敏雄範士、講談社野間道場師範に就任

1978年
昭和53年8月11日

森田文十郎範士、逝去(享年88歳)

1979年
昭和54年7月

第5回出版剣道大会において、講談社が優勝

1980年
昭和55年

少年部指導を終了

1985年
昭和60年10月18日

中野八十二範士、逝去(享年74歳)

1986年
昭和61年11月

服部敏幸、勲二等旭日重光章を授与さる

1989年
平成元年3月28日

渡辺敏雄範士、逝去(享年77歲)

1991年
平成3年11月20日

小澤丘範士、逝去(享年91歲)

1992年
平成4年1月29日

小川忠太郎範士、逝去(享年91歲)

1930年
平成4年6月22日

望月正房範士、逝去(享年79歲)

1930年
平成4年11月

森島健男範士、講談社野間道場師範に就任

1993年
平成5年12月1日

鏑木武盛を道好会会長(世話人代表改め)に選任

1994年
平成6年11月

服部敏幸、勲一等瑞宝章を授与さる

1995年
平成7年4月23日

大野操一郎範士、逝去(享年94歲)

1999年
平成11年

市来伸夫範士、逝去

2000年
平成12年2月

千葉義胤範士、逝去(享年85歳)

1930年
平成12年8月

長崎正二郎範士、逝去(享年76歲)

2002年
平成14年6月1日

第26回出版剣道大会において、講談社が優勝

1930年
平成14年11月

渡邊哲也範士、講談社野間道場師範に就任

2003年
平成15年7月28日

野間道場床板の大規模補修を実施

1930年
平成15年8月2日

野間道場道好会遠征合宿( 〜8月4日 森島師範以下40名が参加)

1930年
平成15年

全日本剣道連盟設立50周年記念事業として設立された剣道殿堂に、
持田盛二範士が顕彰さる

2004年
平成16年6月

鏑木武盛道好会会長、逝去(享年83歲)

2005年
平成17年5月

森島健男師範による剣道講話の開始(累計65回)

1930年
平成17年7月21日

山内冨雄範士、逝去(享年92歲)

1930年
平成17年

全日本剣道連盟設立50周年記念事業として設立された剣道殿堂に、
野間道場創設者の野間清治が顕彰さる

2006年
平成18年11月3日

第54回全日本剣道選手権大会において、内村良一が優勝

1930年
平成18年

笠原良範士、逝去(享年86歳)

2007年
平成19年2月

三笠宮寛仁親王次女の瑶子女王、野間道場にご来臨

1930年
平成19年7月

第31回出版剣道大会を開催(第31回をもって大会を終了)

1930年
平成19年10月20日

旧野間道場 稽古納め

1930年
平成19年10月21日

新野間道場 講談社第一別館5階に移設、道場開き

1930年
平成19年11月

旧野間道場 解体

1930年
平成19年12月1日

講談社野間道場道好会において従来の道好会会長職を廃止。
代表職を新設の上、役員改選

2008年
平成20年1月14日

講談社野間道場、日本武道協議会より武道優良団体として表彰さる

1930年
平成20年4月

森島健男範士、講談社野間道場名誉師範に就任

1930年
平成20年8月8日

講談社元代表取締役会長 服部敏幸逝去(享年95歳)

2009年
平成21年

高橋滋正会員野間道場道好会功労賞

1930年
平成21年11月3日

第57回全日本剣道選手権大会において、内村良一が優勝

2011年
平成23年3月11日

東日本大震災のため野間道場を閉鎖

1930年
平成23年4月1日

野間道場を再開、野間道場道好会公式ホームページを開設

2012年
平成24年

年間来場者数20,000人超

2013年
平成25年11月3日

第61回全日本剣道選手権大会において、内村良一が優勝

2014年
平成26年10月10日

森寅雄生誕100年展(桐生市・野間清治顯彰会)

2020年
令和2年3月2日

コロナウィルス感染拡大のため、野間道場道好会の稽古を休止

1930年
令和2年8月16日

森島健男範士、逝去(享年98歳)

2022年
令和4年4月1日

氏家道男範士、講談社野間道場師範に就任

1930年
令和4年9月5日

新堀強範士、逝去(享年90歲)

1930年
令和4年10月22日

コロナウィルス感染防止策を徹底の上、野間道場道好会の稽古を段階的に再開

1930年
令和4年12月1日

講談社野間道場道好会 役員改選

2023年
令和5年6月3日

外来稽古参加者の受け入れを再開

2024年
令和6年10月25日

野間道場道好会公式ホームページをリニューアル

参考資料

  • 『野間道場物語』原園光憲 講談社
  • 『タイガー・モリと呼ばれた男』早瀬利之 スキージャーナル 
  • 『百回稽古』小川忠太郎 体育とスポーツ出版社
  • 『中山博道有信館』堂本昭彦 島津書房 
  • 『月刊剣道時代』体育とスポーツ出版社
  • 『月刊剣道日本』スキージャーナル 
  • 『野間道場のしおり』講談社剣道部/講談社野間道場道好会